「百合はさ」感想 第二話

未知との遭遇

天才の努力する姿を見てしまった。

天才と努力って昔は相反する構造で描かれていた気がするんだけど

最近はそれが解体されて描かれていることが多いとも思います。

イチローさんも

小さいことを積み重ねる事が、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています。

と仰っています。同様にとんでもないところへ行った大谷選手も、学生時代からの細かく具体的なエピソードには事欠きません。

もちろん環境も超重要です。音楽に触れる早さ、一流を目の当たりにする機会、打ち込める環境、技術水準の高い部活、片桐と相川のスタートラインが違うのも事実だと思います。

でも片桐が見た相川の一面は、そんな浅はかな対立構造を飛び越えて、決してぬるくない眼差しで広い世界を見ていた。

しかし片桐のモノローグはスルメの様に噛みしめてしまいますね。

全力を込めて来た音楽に 食らいついて来てくれる人が いるだけで

これほど世界が 変わって見えるのかと

相川は 自分にとっての唯一になると感じた

後々片桐自身が作品の中で深堀されていくんで、じわじわきますねぇ。

片桐がどんな思いで『全力を込めて来た』のか、またその自分に対する思いへの揺れ動き。

世界が変わったのなら、それまでの世界はどう映っていたのか。

そしてこの『感じた』の一語。

例えば後日譚として「自分にとって唯一になった」じゃないんですよね。

感じることだけが全て 感じたことが全て

Don’t think, feel

ですよ。

「いかにも」なしっかりした片桐。でも高校生なんですよね。皆。

真面目で、強くて、それでいて未熟で、怖がりで。

そんな登場人物達の成長の過程で感じ方も揺らぐし、誤解もします。

そうありながら、全力で進んで行く彼女ら彼らの幸せを願わずにはいられません。

と10代をダラダラと過ごしたおっさんは思っています。

皆さんのお声

吹奏楽経験者からのお声があって、門外漢には勉強になりますね。

多かったのは1st・2nd…というのはパート分けであって上手さの区別ではないとの話。

逆に2nd・3rdに上手い人を当てることもあるんだそう。

それも指導者や曲でも変わってくるみたいで、

「この曲はこう魅せる」みたいな演出にも関わってくるのかもと思いました。

少なくともこの部活でこの曲では、片桐と相川が目指すポジションなのだなということが解ったのでより楽しめます。

そしてもう一点、

『耳元で楽器を鳴らすのはマジでダメ』との声。これはほん大切。

心身と健康と人生にも影響を与えかねない様です。鼓膜破れるとか聴覚無くなるとか。

そして、やっぱりというか『努力と才能』に対してのお声が良く見られました。

天才に打ちのめされるのも、その道に真摯に向き合ってきた証拠だし、

天才の凄さが解るのもまた、実力の内だと思うし。

努力である程度の位置に登った頃には、大なり小なり打ちのめしてきてるだろうし。

例えば片桐が練習する姿を誰にも見せなければ、天才として見られただろうし。

天才(と呼ばれる人)と努力でのし上がった人の違いなんて、見る立ち位置でどうとでも変わるし、大した違いは無いんじゃないでしょうか。

もちろん親の性質が遺伝するというのも事実だろうし、こんだけ人類が居るんだから最初から持ってる人も恐らく居るんだろうけど、今ある姿って血統も環境も努力も時代も全部重なって漸くカタチになったものだから、「才能があるから」の一言では決して片づけられないですよね。

「あの人は天才だから」って言葉は、その人の努力を蔑ろにする言葉だと思います。

相川にしてみたら、「親や環境がどうだろうと、腕と腹と指と唇に鞭打って吹いてきたのは私なのに」って思っちゃうかも知れないですね。

努力の量や感じ方ってのも比べようが無いですし、「努力してるのに…」が全然足りてない可能性も。

横を見ても仕方がないので、粛々と自分が成すべきことをただ成していく人がとんでもないところへ行っちゃうんでしょうけど、横を見てしまうのもまた、その道に真摯であってとんでもないところへ行きたい気持ちの表れなんだとも思います。

筆者は、チャレンジもせず大きな挫折もしなかった人間です。

「天才に打ちのめされた経験」すら羨ましくもあり、それもないものねだりだと思っています。

なんだか取り留め無くなってきた上に、自分語りという謎展開になりましたが、

他人の才能と努力と、自分の技術と姿勢に藻掻く登場人物たちを応援しています。

Variations on a Hymn by Louis Bourgeois / Claude T. Smith ルイ・ブルジョアの讃美歌による変奏曲 龍谷大学吹奏楽部

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