コーネリアス

おすすめ絵本
主人公のコーネリアス。意気揚々とした表情が愛らしい。

たってあるいた わにの はなし

レオ=レオニ 作 / 谷川 俊太郎 訳

大好きなレオ=レオニの第2弾です。

自信を持っておすすめできます。

あらすじ

大地をはって生活するわにたちのなかで、

ただ一匹コーネリアスは生まれた時から立って歩くことができました。

コーネリアスは立つことによって得られることの素晴らしさや、

旅先で得た特技なんかを仲間に披露しますが、

仲間たちのこたえはいつも「それで?」

もういいと立ち去ろうとしたコーネリアス。

しかしふと振り返ってみると彼の眼に映ったのは…

想像を膨らませる豊かな表現

様々な技法が、それぞれの質感とマッチして目に楽しい。

本作も切り貼りして描かれた絵本ですが、

やはり画材を熟知した技法が随所に散りばめられています。

水辺には水を連想させる『にじみ』を、

わにの体のゴツゴツした皮膚は布(?)で押して、

南国の樹木はマーブルのように、

それぞれの表情にマッチするように技法を使い分け、

思い切った切り方ちぎり方で見事に『無作為』を配置しています。

また鮮やかな他作品と比べて、大自然の中だからなのか

全体的に落ち着いた色調でまとめられています。

高い技術を駆使しながらも見せつけることに走らず、

コーネリアスやその仲間たちの愛らしい物語を

余すことなく伝えてくれる絵本です。

多様性を考える

昨今よく聞かれるようになった『多様性』。

いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと。

goo辞書より

そして現代ではそれを尊重し合う社会が求められている。

出自、文化、国籍、人種、宗教、性別、思想、趣向…

それぞれは、ただそれぞれであり優劣はない。

それらは対立することもあるが、時と場合によりどちらかを優先することはあっても

それは絶対的な判断ではなく、どちらの存在もお互いに尊重されるものである。

そんな現代社会の命題をも思い起こさせてくれる本作は1983年刊行、

普遍的な、そして長きにわたる人類の課題なのかもしれない。

姿形は同じなのに、冷めた表情の仲間たち

この文脈で言うと、コーネリアスは尊重されなかった。

彼は地を這う仲間たちを貶めたりなどはしなかった。

ただ自分がたまたま手に入れた、『立って歩く』ことから得られる価値に

素直に感動し、ただそれを伝えたかった。

しかし自分たちとは違う価値観を持つコーネリアスに対し、

わにたちは理解を示さず冷たくあしらった。

一方で旅に出たコーネリアスは猿と出会い、

全く違う価値観に素直に感動し、教えを乞うことになる。

自分とは違う価値観に出会ったとき、どちらかの対応を取ることが多いだろう。

拒絶することは、相手を傷つけることにもなるし

自分の見識を広める機会を失ってしまうので好ましくないと思う。

ならば迎合することが正かというと、ものには好き嫌いがあるので

合わないものを取り込むことは、自分を傷つけてしまう。

その一つの解として、まずは尊重し合うということではないだろうか。

拒絶することと受け入れないことは同義ではないし、

迎合と受け入れることもまた同じではない。

それぞれはそれぞれであり皆違う。ただそれだけを認め、知っておく。

自分可愛さを認め、他の人もそうであることを理解しておく。

そこから先は趣味趣向の話で、その時々の判断で

受け入れる受け入れないを選択すればいい。

『自分』そして『違うもの』との関係性を、

コーネリアスは静かに考えさせてくれる。

だからといって不器用なもの

ネタバラシはしないものの、この絵本はハッピーエンドである。

最後はわにたちが、コーネリアスに理解を示す描写で締めくくられている。

『そしてみんな仲良く暮らしました』とまでは描かれないものの、

そうなる姿を予感させる、とても微笑ましいラストだ。

そしてその一歩手前で終幕するということに、

本質的な問いかけが秘められているようにも思う。

常に新しくあること、変わり続けることが全てではない。

新しいもの、変わったものを尊重すると同様に

今までの自分を、誰よりも自分が尊重した方がきっといい。

大事なのは「あんなのもあるんだ、いいかもしんない。」

と考えることだろう。その先に、

「この方がいいや」と「やっぱりこのままでいいや」のどちらがきても、

それはどちらも新しい変化であって、ひとつ進んだ自分を手に入れたことになる。

違う生きもの。多様性の極み?

立って歩くということと同時にコーネリアスがたまたま持っていたのが『素直』な心。

例え、出会った猿の特技がつまらないものだったとしても、

コーネリアスは興味を示し貶めたりはしなかったであろう。

素直な心は単純に出会いを喜び、素直に自分を表現し、

素直に称賛し、素直に教えを乞い、素直に感動を伝えたいと思う。

素敵なことに思えてそれがなかなか多くの人には難しい。

誰しも覚えがないだろうか?

悪いと思っているのに謝れない。

凄いと思うのに褒められない。

子どものころはちょっとした意地で済んでも、

大人になり周りに与える影響が大きくなると、意地では済まなくなってくる。

コミュニティを巻き込んで大きくなった素直じゃない心は、

凝り固まってもう別のもののように姿を変える。

そして冒頭の、出自、文化、国籍、人種、宗教、性別、思想、趣向を

対立させ、現代にも顕在する様々な社会問題へと発展する。

しかしわにたちは、そんな意地の殻を破ってみせた。

不器用ながら、素直になりきれず、コーネリアスの背後で。

何事もあるなしを断ずることは容易くなく、

素直じゃないと見える中にも素直な心は隠れている。

もちろん、それを覆う意地が悪いというものでもない。

意地が心を支え、強くすることは多分にある。

しかし自分とは違うものと出会ったとき、

その殻を少し緩めて破ってみるのも、自分をひとつ進めるのに大事だと思う。

コーネリアスはその意地がたまたま無いか、とても薄かった。

しかしそれ以外は仲間たちとなんら変わりは無いはずである。

体躯も知能も、特別優れているわけではない。

たまたま少し変わったところがあって、コーネリアス自身も

それを楽しむことができた。

素直なまま自分を表現できるならそれはそれでとても素敵なことだ。

しかし誰しもそうなる必要があるわけではない。

素直じゃない、なれない心にも背景はある。

自分の意地も尊重し、その上であえてその殻を少し破ってみる。

そうするときっと新しい世界が開けることだろう。

我々が壮年の門を叩き、今の子どもたちが世の中を回すようになった時、

コーネリアスのように、わにたちのように、自分なりの方法で

新しい世界を開けていったら素敵だと思う。

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